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警察OB・元政治家秘書の社会評論家│渋井治雄が時事問題を語る

渋谷暴動殺人事件46年目の逮捕

今は激しい警備も無くなってはいるが、昭和40年代の警備現場では、常に命の危険があった。何しろ極左暴力集団の数の方が機動隊員の数より多いのですから、そりゃ大変でしたね。昭和43年の日大闘争では警視庁第五機動隊の方が殉職されましたが、日大全共闘の皆さんは、屋上から冷蔵庫まで投げ落としていましたからね。私も学生でしたが、日大闘争では、警備のアルバイトをさせて頂きました。当時で確か、一時間、2000円でしたから、結構稼がせてもらいました。日大の方からの学園闘争の応援要請でしたので、最初は、まさか、お金が貰えるとは思いませんでした。本物の日大の学生証まで与えられ、この学生証を見せると、何でもOKで、食堂も無料でした。日大経済学部三号館の屋上に日章旗を掲げ、階段に机と椅子でバリケードを築き、日大全共闘の進入を防ぎました。それでも彼らは攻めてきましたから、一つ間違うと殺されてしまう話、一時間、2000円でも安いと思いましたよ。

それと学生ばかりでなく、当時の市民団体も暴れる組織が結構ありましたから、機動隊は花形でしたね。私も警視庁第二機動隊と第四機動隊に在籍したことがありましたが、冬と夏の警備は辛かったものです。成田警備は、他県の機動隊員が五人も殺されてしまい、厳寒時は、気温がマイナス五度位になるのですから、そりゃ、立っていて、焚き火でもしたいと思ったものです。炎天下の、約10キロの極左集団デモの併進規制も疲れるものがありました。解散地の六郷土手には、バケツの中に塩がたくさん置いてあり、それを舐めても甘いと感じたものでした。

そんな昔のことを思い出しての、今回の46年ぶりの逮捕劇、感慨深いものがあります。極左暴力集団も皆、年を取りましたね。高齢化の波は、どんな世界にも押し寄せています。しかし、いかなる理由があるにせよ、犯罪は許されないもの、殺人の罪は償わなければなりません。殺されてしまった警察官の命は戻らないのですから。捜査員の皆様、御苦労様でした。

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