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警察OB・元政治家秘書の社会評論家│渋井治雄が時事問題を語る

今、アメフトのタックル問題で話題となっている日大での思い出

日本大学の体質が今はどうなのかはわかりませんが、今から50年前の昭和43年に日大の乱脈経営が原因で日大闘争が起きました。当時、学園紛争は全国的なものになっていましたから、何か一つでも問題が起きれば、学生組織が強かった時代ですから教職員組合の出番どころか、直ぐに学生が暴れ出して、それは凄いものでしたね。

左翼の学生運動なるものは、最初は日本共産党の影響下にある学生組織が全ての様でしたが、1956年のハンガリー動乱でソ連の戦車がハンガリー住民を蹂躙したため、そのソ連の軍事行動を容認した日本共産党を批判する学生が、反日共系全学連として誕生することになるのです。この組織が、後に極左暴力集団と言われるものとなるのです。その中心的なものが三つあり、それが三派全学連として名前を轟かせました。
そして、昭和41年に、中核派とブントの学生組織社学同(社会主義学生同盟),さらに社会党の青年組織から生まれた社青同(日本社会主義青年同盟)解放派によって三派全学連が結成されたのです。

中核派、社学同、社青同の三派全学連です。

革マル派は中核派と同じ組織なのですが、革命の主体が、中核派が労働者、農民であるのに対し、革マル派は、自分達自身が革命の主体であると考えているので、党建設が優先で、街頭闘争は勢力の消耗と称して、中核派とは行動原理が異なるのです。ですから、中核派などからは、女革マルと揶揄されたものでしたが、しかし、革マルが暴れると凄惨な内ゲバでもわかる様に、それは手が付けられないものがありましたね。

最初の頃は、赤ヘルの社学同が、その主導権を握っていましたが、明大闘争の失敗で、いつしか街頭闘争の主役は中核派になることになります。羽田闘争で、それが明らかになりましたね。

さて、そこで日大闘争なのですが、国士舘大学の学生であった私は、日大正常化委員会の要請で、日大警備の応援に行かせて頂きました。日大経済学部三号館の屋上に日章旗を掲げ、秋田明大氏側の学生さん達と対峙させて頂きました。

その際、日大職員の方から、日本大学経済学部経済学科二年、渋井治雄と記載されている日本大学の学生証を渡され、「今日から、皆さんは日大の学生です、しっかりと日大を守って下さい。」と言われました。

警備の手当ては、一時間2千円で、闘争期間中、結構な金額を頂きました。三号館の階段には机と椅子でバリケードを築き、日大全共闘派の侵入を防ぎました。彼等は、何度も攻めて来ましたが、我々も水を浴びせるなどして撃退しました。

この、日大闘争では、警視庁第五機動隊の警察官の方も殉職されました。本当に激しい闘争でしたね。

そんな、日大での記憶、今回の日大の暴力事件を見て、フト、遠い昔を思い出しました。

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